令和7年度 市長コラム「多摩の風」
市長コラム 多摩の風第139回 多摩市に「人間国宝」が誕生!!
映画「国宝」ご覧になりましたか。曽根崎心中の場面は圧巻でしたね。歌舞伎役者として「人間国宝」への苦難の道を見事に演じ切った吉沢亮さんそして横浜流星さんに喝采です。
先月、開催された「第17回TAMA映画賞」で最優秀作品賞を授賞し、私から吉沢さんに表彰状を授与しましたが、私は興奮しっぱなしで。
実は、本年、この「人間国宝」になられた方が多摩市に誕生しました。もちろん、本市では初めて。渡辺晃男さんです。先月、文化庁のある京都で伝統的な芸能・工芸の分野で高い技術を持つ重要無形文化財の保持者、いわゆる「人間国宝」の認定書交付式に出席されました。
渡辺さんは昭和28(1953)年の千葉県生まれ。木工芸の世界、特に指物という組み手をみせず、釘を一切用いず、調度品や箱物を神代欅、楓など選び抜いた素材を活かし、さらに夜光貝、べっ甲などの輝きを丁寧に素材にはめこむ象嵌と呼ばれる技法で正倉院時代を彷彿とさせる工芸品を制作しています。
若い時に日本伝統工芸展でその美しさに魅了され、その後、同展で優秀賞や各賞を受賞し、令和元(2019)年には紫綬褒章を受章されました。
渡辺さんは「小さい時から木工などが好きで大工さんか指物師になりたかった」と幼少期を振り返ります。実際、市内の保育園で渡辺さん制作の椅子やテーブルが使われています。「たま広報」1月1日号に渡辺さんが登場します。お楽しみに。
(多摩市長 阿部裕行)
市長コラム 多摩の風第138回 人や環境に優しい未来の交通
「宇都宮ライトレール」はご存じですか。先月、初めて乗ってきました。路面電車としては実に75年ぶりの新規開業とのこと。色鮮やかなデザインの低層仕様の車両はとてもお洒落で身も心も暖かくなりました。
広島や松山、もちろん、東京の荒川などで市電・都電に乗ったことはありますが、「宇都宮ライトレール」には新鮮な驚きと衝撃を受けました。
人口約51万人の栃木県の県都・宇都宮市はじめ北関東エリアは、もともと移動には車が必須と自家用車の保有率も高く、都市化の波と共に交通渋滞も常態化していたようです。
交通渋滞を無くし、車に頼る暮らしから人や環境に優しさをと目指した先がライトレールという新交通システムでした。
公共交通をどう維持していくかはいまや全国共通の課題です。多摩市でも地元バス会社と協議を重ね、私たちの足である路線バスやミニバスをどう維持していくか、減便や路線の見直しなどへの対応について、市民の皆さんと意見交換したところです。
来年1月には、多摩センターエリアにおいて市内で4度目の自動運転バスの社会実験が行われますし、豊ヶ丘・貝取商店街エリアでは遊歩道を走る2人乗りのモビリティ運行のサービス実証を行ったところです。市内のシェアサイクル利用者も増加の一途です。
多摩市で「ライトレール」をと思ってもハードルは高そうですが、人や環境に優しい未来の交通を共に考えませんか。
(多摩市長 阿部裕行)
市長コラム 多摩の風第137回 小さい秋。見つけませんか。
アプリでかんたん!楽しく歩いて健幸に!TAMAるんるん♪という「健幸ポイント事業」が10月から始まりました。
多摩のまち。歩いていますか。紅色に輝くヒガンバナ、ピンクやオレンジなどカラフルなコスモスを見るようになりました。
遊歩道や雑木林の近くで白いブラシのような花が咲くイヌショウマや紫の花を咲かせるノハラアザミなどに出会うことも。草むらからウマオイ、ショウリョウバッタが飛び出したり、コオロギやアオマツムシの鳴く声、キタテハ、アカタテハなど文様の美しいチョウや赤とんぼの乱舞に秋を感じる時も。
まちを歩くと、新しいお店がオープンしている、変身できそうな服や帽子、魚屋で脂がのったサンマなど心や胃のときめきを感じるかもしれません。
そうは言っても天気は「降れば豪雨晴れれば猛暑」ですし、「四季」を感じる風情は遠のき、夏と冬だけの「二季」だなんて、ここはどこの国かと。
とはいえ、11月23日㈷には多摩市健康づくり推進員協議会主催「多摩さわやかウオーキング大会」も開催されます。5km、8km、14kmの3コースが用意されています。一緒に歩きませんか。
なお、「健幸ポイント」ですが、お持ちのスマートフォンにアプリ「WoLN」をインストールしてください。日々の歩数などに応じてポイントが貯まります。詳細は、多摩市公式ホームページなどでご確認ください。ウオーキングで小さい秋、見つけませんか。
(多摩市長 阿部裕行)
市長コラム 多摩の風第136回 いつ始まり終わったのか
戦後80年の夏も蝉の声と共に過ぎました。ただ、あの戦争は、いつ始まり終わったのか。改めてザワザワする夏でした。
戦争が始まったのは1941年12月8日の真珠湾攻撃から? いや1937年7月7日の盧溝橋事件から? それとも1931年9月18日の満州事変から?
戦争が終わったのは、ポツダム宣言を受諾し、玉音放送を聞いた8月15日? 日本政府が降伏文書に調印した9月2日? 日本が連合国軍の占領下から独立した1952年4月28日?
確かに教科書的には開戦は真珠湾攻撃、終戦は8月15日です。ただ、ご家庭によっては、戦地から肉親が帰って来た日、遺骨を収集した日などそれぞれ異なるのかもしれません。
精神科医で劇作家の胡桃澤伸さんは、先月開催された「多摩市平和展」で「戦後というが、私にとって戦争はまだ終わっていない」と祖父が村長として満蒙開拓団を送り出し、敗戦と敗走の中、その村民たちが満州で集団死した責任をとり、終戦の翌年に自死したとの話をされました。その事実もご自身が37歳の時に知ったそうです。
ソ連の対日参戦によって満州では多くの悲劇が生まれました。しかし、もともと満州国は誰が作ったのでしょう。国策として進められた満蒙開拓の責任は一体誰にあるのでしょう。
もし当時、私が村長だったら中国の人々が住む土地を接収し、「王道楽土」と呼ぶ国策にどこまで抵抗できたのか。背筋が凍る思いです。
(多摩市長 阿部裕行)
市長コラム 多摩の風第135回 多摩村の人々の戦争体験
パルテノン多摩ミュージアムで「戦争と多摩の人々」という多摩村当時の人々の戦争体験に焦点をあてた戦後80年企画が開催されています。
ミュージアムで目に飛び込んでくるのは赤紙と呼ばれる召集令状です。村長の決裁を受け、招集者へは原則、3時間以内に手渡さなくてはならず、不在の場合は「動員下令印を携えすぐ役場に来い 多摩村役場」と真っ赤な紙が家に貼られました。
多摩市役所の高台の片隅に日清・日露戦争の戦没者を弔う彰忠碑がありますが、戦後の昭和22(1947)年、これを隠すため警防団が碑に土をかけ、築山のようにしたという事実を初めて知りました。
当時、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は戦前の国体護持や戦争美化につながるものの撤去・廃止を求め、忠魂碑などについても撤去を求めたようです。この命に抵抗し、巨大な建立物を隠したというわけです。
今回の企画展はパルテノン多摩の学芸員と市民学芸員の皆さんが協力し、落合地区の出征者の記録『落合の軍隊記録』のデータ化、彰忠碑の再検証、聞き取り調査、軍事郵便や全国的にも希少な村役場の兵事関係資料などを調査・研究したものです。展示は11月9日日曜日まで。
市民学芸員の皆さんが時空を超え、足で稼いだ今回の企画。正直、感動しました。なお、パルテノン多摩では定期的に市民学芸員の養成講座を行っています。ご希望の方はパルテノン多摩までお問い合わせください。
(多摩市長 阿部裕行)
市長コラム 多摩の風第134回 いけ!みんなの夢まもるため
「なんのために 生まれて なにをして 生きるのか」NHKの連続テレビ小説「あんぱん」でよく聞くこのセリフ。やなせたかしさん作詞「アンパンマンのマーチ」冒頭の言葉です。
戦後80年の夏を間もなく迎えますが、私を含め戦争を知らない世代が圧倒的に多くを占める時代となりました。
やなせさんは陸軍に徴兵され下士官として中国大陸へ。26歳で終戦。この体験がアンパンマンに投影されていたのですね。しかも「それゆけアンパンマン」は、やなせさんが69歳の時の作品だったとは驚きです。
先月旅立たれた長嶋茂雄さんは9歳で終戦を迎え、戦後兄から野球の手ほどきを受けたとか。私がゴムボールの三角ベースで日が暮れるまで遊んでいたころ、長嶋、王そして巨人V9時代に導いた川上哲治監督当時は、まさに「巨人・大鵬・卵焼き」の時代でした。
長嶋茂雄さんの名言の一つ「ウサギとカメならカメでいい。我慢する勇気が重要なんです」この言葉に何度助けられたことか。困っている人、お腹を空かしている人に自分の顔を食べて元気になってというアンパンマン。ミスタージャイアンツもエンターテイナーとして最後まで私たちに勇気と希望を与え続けてくれました。
貧困で子どもたちが苦しまないよう、戦争で命を失わないよう「ああ アンパンマン やさしい君は いけ!みんなの夢 まもるため」(アンパンマンのマーチから)
(多摩市長 阿部裕行)
市長コラム 多摩の風第133回 乞田川の桜吹雪いつまでも
「さくら咲いて、なるほど日本の春で」日本各地を旅していた俳人・種田山頭火の句です。今年は満開の桜が入学式を彩りました。やはり春は桜ですね。
乞田川の遊歩道。宝野公園や奈良原公園。聖蹟桜ヶ丘のさくら通り。永山さくら通り、都立桜ヶ丘公園などなど。桜の花に癒されたことと思います。
ただ、ちょっと悲しいお知らせです。昨年の降雪で乞田川沿いの桜が倒木しました。川の中へ倒れたため、人や家屋への被害はなかったものの、市は樹木医にお願いし、乞田川沿い桜の街路樹診断を行いました。
その結果、乞田川沿いの500本近いソメイヨシノなどの桜の木のうち、80本を超す木が腐朽している、との診断があり、倒木などを防ぐため早期の対応が必要となりました。
もともと川沿いは湿気も多く苔などが繁茂し、実際、キノコの菌糸が樹木内にはびこり、空洞化したり、土壌の硬度が高く根が深く張れないなどの問題もあるようです。
この6月の多摩市議会に危険度の高い乞田川沿いの桜の木を伐採・抜根する補正予算を上程します。乞田川沿いの桜は多摩市にとって大切な観光資源であり、今後は市民の皆さんの声も伺い、比較的耐性の強いジンダイアケボノなどの樹種を選び計画的に植樹していく考えです。
乞田川沿いの桜更新について説明会を開催しています。大切な財産である桜を次世代につなげていくためにもご理解・ご協力よろしくお願いいたします。
(多摩市長 阿部裕行)
市長コラム 多摩の風第132回 岡本太郎と未来への憂い
「芸術は爆発だ」の岡本太郎が制作した「太陽の塔」。55年経ったいまも大阪の万博記念公園に立ち続けています。
中学生だった私は、マンガ冊子やTVなどで見たアポロ12号が持ち帰った「月の石」に興味津々でしたが見る機会もなく・・。
「太陽の塔」は、建築家の丹下健三氏がプロデュースし、開会式も開催したシンボルゾーンの大屋根をぶち抜くという常識破りの破壊力、そして人類の未来や神々への畏敬の念を込めた存在感のある造形物でした。
この「太陽の塔」には、金色に輝く「黄金の顔」、縄文と現在を貫く「太陽の顔」、静かに怒りをにじませる「黒い太陽」、そしてその後所在不明となった「地底の太陽」の四つの顔がありました。
当時の万博のテーマは「人類の進歩と調和」。しかし、ベトナム戦争の激化、原爆や水爆など米ソ冷戦下での絶え間ない核実験など、岡本太郎は科学技術と人類の未来への憂いを「黒い太陽」に象徴させました。
この万博会場の隣には1962年から入居が始まった「千里ニュータウン」があり、リアルな未来都市が実際に賑わいを見せ、その後、夢見る未来は「多摩ニュータウン」に引き継がれました。
先月、開会した大阪・関西万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。岡本太郎は「全生命が瞬間に開ききること。それが爆発だ」との言葉も残していますが、未来への憂いは払拭できたでしょうか。
(多摩市長 阿部裕行)
市長コラム 多摩の風第131回 「ぼく」と王子との出会い
「おとなは、だれも、はじめは子どもだった」サン・テグジュペリの「星の王子さま」冒頭に書かれた一文です。
皆さんは子どもだったころのことを覚えていますか。私の両親は仕事も忙しく私が生まれたころ、電信柱に貼ってあった家政婦派遣事務所に電話して、私の子守をお願いしたそうです。
昭和30年代でトイレや炊事場も共同利用のアパートでの暮しをおぼろげに覚えています。
昔も今も、子育ては孤立しがちです。多摩市では、何かできないかと令和6年4月から「こども誰でも通園事業」を開始し、この4月から市内の幼稚園・保育園などの13園に順次拡大していきます。
対象となるのは生後6カ月から満3歳未満までのお子さんですが、「姉が通っている幼稚園行事の時など下の子を預かっていただき助かりました」「とてもありがたい制度。通院やリフレッシュの際に利用している。何かあったら預け先があるというのは余裕が生まれる」など、多くの感謝の言葉をいただいています。申請はネットで。
また、子ども(15歳以下)が「急に熱を出した」「熱は無いけどお腹が痛い」などの時、多摩市には年中無休で対応する「こども準夜診療所」が聖蹟桜ヶ丘の健康センターにあります。午後7時から9時45分まで。事前にお電話を。
「星の王子さま」に描かれる「ぼく」と小惑星からやってきた王子との出会い。幼稚園や保育園で先生や友だちと出会うのも「ぼく」の成長かも。
(多摩市長 阿部裕行)
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